指先から何もかも零れ落ちる。 THE LONG GOODBYE ベネックス・ブルーの中に仄かに点った間接照明のランプは、水の底から見上げた太陽のようだ。 ホテルのバーラウンジで一人、酒精を舐めていたクロロは、隣の席に座っていた女が「わざと」忘れていった銀色のアルミケースを手元に引き寄せ、開いた。気まぐれに。 シガレットが七本、ケースの中で入り乱れている。 色のついたフィルタを犬歯で少し噛みながら、煙草を吸うのは一体どれくらいぶりだろう、とクロロは不意に思った。 好奇心に駆られて老爺の手から吸いさしのそれを受け取ったのが、十代の始め。それ以来、ほんの時折、気まぐれに煙を欲することがある。 目の前に立っていた茶髪の青年バーテンダーが、おもむろにライターを取り出し、クロロの咥えた煙草の先へ両手でうやうやしく差し出した。 クロロは黙ってそれを受け、人差し指と中指の間に挟んだ煙草の先をじりじりと焼いた。足を組み、片方の腕をカウンターに乗せたまま、身を乗り出す。 クロロが吸い込んだ煙を吐き出したのを確認すると、無口なバーテンダーはライターをベストの中へ仕舞い込んだ。 甘ったるい煙の香りに鼻腔を擽られる。 はじめて煙草を吸った日のことを、ゆるゆると記憶を手繰り寄せるように思い起こした。 ――お前は、捨てられたんだ あの時、確か、しわがれた声で、老人がクロロにそう言ったのではなかったか。 彼はクロロが深く吸い込み過ぎた紫煙に咳を繰り返すさまを、左右で色の違う瞳で見据えながら、自分自身も煙草を唇に咥えた。 左目をずっと昔に失明したという老人は、濁った灰色の瞳をてんで見当はずれの方向に向けている。目の端に溜まった脂を取ろうともしない。 オレは一体何者で、どうしてこんな場所で息をしているのだ。 クロロは、彼を育てた老人に対して、その日、唐突に尋ねた。 その至極透徹した問いかけから発していたであろうアイデンティティの萌芽を、老人はいとも容易く摘み取った。捨てられたのだと言った。 無用のゴミとして。捨てられた。 あたりに蝿を散らせる腐った果実や、うじを涌かせた腐乱死体が、二人の周囲に転がっていた。 この街の住人は、濁った目でそれらを拾い、収拾していく。 アレと。 腐ったあれらと、自分は同じようにして捨てられたのだと、老人に聞かされた。 「オレは、ゴミ同然なんだな」 唇の端に煙草を咥えながら、背後を振り返って、少年は問う。「否」と老人は言った。「同然、ではない。ゴミそのものだ」 一体何をしたというのだろう。 赤子の自分が何をして、誰に疎まれるような真似をしたというのだろう。 何故、自分は母親から必要とされなかったのだろう。 彼は煙草を吐き出して、汚れた靴の底で踏みにじった。 煙草の吸殻。これもゴミ。自分と同じ。 「お前を拾った女は、いたよ」 老人はうっそりと呟く。「ゴミの山の中で、ここの住人にも見つけられることなく死んでいく途中だったお前を、拾った女が、いた」 クロロが、その女はここの住人か、と問うた。老人は否、と首を振った。「見かけない顔だった」 「どんな女だった?」 「白い洋服を真っ赤な血で汚して、泣きそうな顔をして、俺にお前を託していった。あんなに美しい女を、俺は見たことが無かったよ」 「会ってみたい」 「無理に決まっている。どこの誰だかも判らねえんだ。……それに、会ってどうするんだ、クロロ」 自分がただのゴミではないと言う事を、揺ぎ無い口調で彼女から告げて欲しかった。 否、言葉なんて要らない。 ただ黙って、抱きしめて欲しかったのだ。 クロロはその後何度となく老人にその女の容姿や年恰好、身に着けていたものなどを尋ねたが、返ってくる答えは何故かいつも違った。老人は少しずつ、ゆるやかに痴呆を進行させていたのだ。 ある日老爺は、ゴミの中に埋もれるようにして死んだ。 クロロは、彼をその他のゴミと同じように淡々と回収し、処理した後で、彼の話した「女」と言うのは、嘘か、ただの痴呆の表れだったのだ、と思うようになった。女の存在を信じなくなり、彼はすべてを放棄した。 欲しいものは腕ずくで奪うようになった。 欲するものを手に入れるために、他人をクズのように扱った。 * 煙草の煙をゆっくりと吐き出して、クロロは思った。 あの時老人に己は何者であるのかと言う質問を投げた過去の自分は、一体どんな答えを期待していたのだろう。 お前はゴミなんかじゃない、ということを言って欲しかったのか。どんな子供でも当たり前にして貰えるように、やさしい大きな手に頭を撫でて欲しかったのだろうか。 「あぁっ! クロロさん一人でお酒飲んでずるいじゃないですか!!」 人の思考を遮ってぶち壊すような、夜の静かな空気にそぐわない声がした。クロロの左耳から入って脳を貫き、まっすぐに右耳を出て行く。 クロロはにわかに顔を顰めて、灰皿へ煙草を押し付けた。 「お前がいると台無しになるんだよ」 出し抜けに現れた少女は、先ほど見知らぬ女がしきりと秋波を送り続けていた左隣の席に断り無く腰掛けた。矢継ぎ早にバーテンダーに向かって、ギムレット、と言う。運転手の が、当たり前のような顔をしてクロロの隣に居座ったのだ。 制服姿のままの彼女は、短いスカートから太腿を覗かせている。ベネックス・ブルーに照らし出された真珠色の肌は、不思議な光沢を持ってクロロの目を引いた。 「じろじろ見ないで下さい」 非難がましい口調で は言い、自分のスカートを下へと引っ張った。「エッチ」 「ギムレットなんか飲んで後で潰れても、面倒みてやらないからな」 クロロが溜息を漏らして前へ向き直ると、彼女は笑って、言った。「《ギムレットには早すぎるぜ》」 クロロは思わず、つられて笑う。 この女の一挙手一投足、一言一言が、簡単に自分を不機嫌にさせたり、笑わせたりする。 はうれしそうににこにこと微笑んで、彼が肩を震わせている様子を見つめていた。それから、おもむろに灰皿の中を見て、不思議そうに目を見開いた。 「クロロさん、煙草吸うんですか?」 「時々ね」 「身体に悪いですよ」 はしたり顔で言う。「肺が黒くなるんですから」 「煙草の吸いすぎで死んでも、ゴミはゴミだからな。誰も困らないだろう」 こんな言葉を吐いて、どうなると言うのだろう。 彼女に、そうではない、と一生懸命否定して欲しいだけの、拗ねた一言だ。彼は口元を押さえたが、吐き出した言葉を押し戻すには遅すぎた。 「クロロさんはそう言うけれども」 は案の定、向きになって反駁してきた。「あなたが今ここにこうして五体満足で生きて存在しているからには、誰かがあなたを拾って、救って来たんです。彼らにとって、あなたは絶対にゴミじゃなかった。絶対に」 「そうだな」 クロロは曖昧に頷いて、目先のシガレットケースを弄ぶ。すぐそこに、カクテルグラスに添えられた少女の細い指先があった。「不確かだが、オレを拾った女が居たらしい」 「女の人?」 「オレは多分、きっと、これから先もずっと、その人のことを思いながら息をするんだろうな。たとえ夢の女だったのだとしても」 「どこの誰なんですか、それ」 判らない、とクロロは首を振った。「ボケた爺さんに聞かされただけの話で、彼女が本当に居たのかどうか定かじゃない。それでも、最近、また少しくらいなら、信じてもいいような気がしている。……変だよな。年を取ったのかもしれない」 「……その女の人のこと、好きなんですか」 の質問に、ふと、顔を上げた。 「……どうだろう。そうかも知れない。初恋だったかな」 はクロロの返答を聞くと、さも面白くなさそうに俯いた。 むっとした顔を隠さず、拗ねているようにしか見えない。 「どうかした?」 彼女の細い腰をおもむろに抱いて引き寄せると、判りやすいほど明確に、 は赤くなって狼狽した。 「べ。別に」 「妬いてるのか酔ってるのか、その不遜な態度、どっちだ」 クロロが耳元に問うと、依然として不機嫌そうな顔をした はくすぐったそうに身を捩りながら、「放っておいてください」と言う。それから、もごもごと気まずそうに、「あんまり、昔の女の人の話とか、聞きたくないです。私、そういうの興味ないです」と続けた。 「へえ。初めてキスした相手とか、初めてセックスした女とか、初めてオレに惚れてきた女とか、そういうの、何も知りたくない? 例えば14歳の頃に――」 「ああ、やだ! もう聞きたくないって言ってるじゃないですか!!」 が心底嫌そうに声を尖らせ、自分の耳を指で塞いだ。 嗜虐心をそそられてつい淫猥な言葉を続けてしまいそうになるが、あまりにも が真剣に嫌がるので、思わず笑ってしまった。 「そんなに聞きたくないんなら、自分でオレの口を封じてみろよ」 挑発するようにささめくと、彼は唆すように顔を近づける。 「意地悪。クロロさんなんか、嫌いなんだから……」 青く仄かに明かりが点るバーの中で、人目も憚らず、 はクロロの頬を両手で挟み、唇を添えた。ふくよかで甘い口付けが、かすかに震えている。 呆気ないほど従順で、時折怖くなるくらい素直な女。 クロロが舌先で の唇を突くと、彼女は戸惑いながらも小さく口腔を穿つ。暫く彼女の舌を弄んだが、少し熱を入れすぎたか、と自覚したあたりで、少女は眉宇を顰め、顔を離した。 「苦いです」 煙草の味を咎めらた。クロロはわずかに目を細めると、「我慢したらどうだ? ちゃんと耐えたら、あとでご褒美をやるよ」と挑発する。 「何処でくれるんですか?」 ……返答に窮した。 何を、ではなく、何処で、と聞き返されたのだ。ご褒美の中身をあらかじめ決められているようである。つい笑ってしまいながら、「オレの部屋で良い?」と応じる。 はその言葉を聞いて一瞬ぽかんとしたが、口元を押さえて呻いた。見る間に赤くなる頬の具合から言って、さっきの質問を無意識の内に行ってしまったらしい。 「わ、私、べつにそういうつもりじゃ……! あ、あれ? 何でこんなこと聞いちゃったんだろ!」 はうろたえたように顔を覆って言い訳じみた言葉を幾つも吐いたが、やがて開き直ったように顔を上げると、「ああ、もう。いいや。寝ます」と言って席を立ってしまった。 クロロは肩を竦めて前に向き直る。すると、ずっと無口だったバーテンダーが、「追いかけなくても良いのですか」と尋ねてきた。 クロロが微笑んで「いいんだよ」と手を振る。バーテンダーは窺うような眼差しでじっとクロロを見た。 「《死んだはずの幻影旅団団長が、こんなところで何をしているのか――》」 クロロが呟くと、バーテンダーは驚くでもなく、淡々と頷いた。「はい。確かに今、そんな目であなたを見ました」 クロロはふっと溜息を零すように笑うと、名前も知らない女が置き去りにしていったシガレットケースをバーテンダーに託して、席を立つ。 そして、言った。 「仕事を終えて家に帰る、コーヒーをつぎ、タバコに火をつけたら、あとはオレについてすべて忘れてくれ」 「かしこまりました」 青年は静かな声でそう答え、頷きもせずクロロを見つめ返した。 水の底に沈んだバーを後にする。 エレベータを昇って部屋の前に辿り着くと、 がぶすっとした顔のまま、ドアに凭れて立っていた。 「寝るんじゃなかったのか」 クロロが問うと、ばつが悪そうな顔のまま、彼女は首を振った。「寝かさないで下さい」 たった一時の別れすら惜しむように。 いつか本当に、自分の存在を自分でゴミだと思わなくなる日が来るかもしれない。彼女はいつも、そんな幻想を彼に抱かせる。 が散々泣き叫んでクロロの名前を連呼し続けたのを特等席で堪能した。 彼女の声や腰つきや表情、反応の一切は身体を重ねるたび、日毎にいやらしくクロロの好みに変質していったが、それでも、どうしても侵せない部分が、 の中にはまだ存在していた。そこを自分のものにしたくて、いつも躍起になって攻めてしまうのかも知れない。 散々味わった挙句に「まだするか?」とクロロが問うと、相手は笑って、「うぅ、」と漏らした。応とも否ともつかない。 問いただそうとした時、 少女は不意に、胸に抱いたクロロの頭を、優しく撫でた。 何も言葉が出てこなかった。黙って目を閉じて甘えた。 一月すぎれば、この泡沫のような快楽も安堵もぬくもりも、指先から零れ落ちた血のように、汚れた染みになるのだろうか。 だとしても。 本当のさよならを言うつもりは無い。ソー・ロング。その程度で良い。 2006 02 06 Muc MINAKAGE So Long… +++++ 「エッジスタイル」の水影椋様から閉鎖直前のフリー配布物を掻っ攫ってきました。 ROAD MOVIEを読まれた方は沢山いらっしゃるんじゃないかと思います。 一日に千人以上が出入りする超人気サイトで、内容も素晴らしいサイト様でした。 閉鎖するのは本当に残念ですが、今度は職業として執筆をしている水影さんが見たいです…。 *輝月 |