ざあざあと、雨は今朝からずっと降りしきっている。



傘をさしていなかった訳ではないが、その湿気のせいで体全体がしっとりと濡れているように思う。

おまけに、誤って水溜りに突っ込んだ足とスーツの裾はびしょびしょである。


それでも雨脚は、今朝に比べれば幾らかは優しくなったほうだろう。

わりと視界は良いし、何より暴風雨は収まった。










クラピカは仕事帰り、疲れきった体を引きずりつつある場所へ向っていた。

もう夕刻を過ぎた辺りだ。“彼女”はもう夕飯を食べているだろうか。

腕時計の針にちらと視線をやりながら、クラピカはふとそんなことを思う。







穏やかに軽快なリズムで傘を叩く雨の音とは裏腹に、クラピカの心は高潮していた。



明日、遂に討つべき敵と接近できるチャンスが巡ってきたのである。

長年に渡って願い続けてきたその機会に落ち着いてなどいられるはずは無かった。



水溜りに足を突っ込んでしまったのも恐らく考えに没頭していたからで、

それだけ滅多にないチャンスだし、当然無駄には出来ない。















クラピカはしっとりしていた髪の毛を軽くかきあげて、顔の両端を耳にかけた。

その耳にさがるピアスが雫の反射を受けて僅かに煌めいた。


そしてゆっくりとネクタイを緩めると一番上のボタンを一つ外す。





「(今は家にいるだろうか……またどこかへフラフラと出歩いていなければ良いが…。)」




ある場所。そこへは、明日の仕事…つまり蜘蛛との接触をする前に一度行っておきたかった。

言い方は悪いかもしれないが、正直明日が終わるまで自分が無事かどうか定かではないからだ。




クラピカは視界に入って来たマンションを見上げると、ある一室の窓を眺める。

曇りで暗いのにそこから照明の光を見ることは出来なかった。…恐らく、部屋にはいない。





雨の中、一体何処をほっつき歩いてるのだろうか。

また何かに絡まれてたりしたら少し説教をしてやらなければならないな。





少し不安を感じながら何気なく歩を進めると、マンションの出入り口にうずくまる一つの人影を見つけた。

傘ので姿が隠れてしまっているが、背丈はそれほど高くないようである。

気分でも優れないのだろうか。




「貴方、大丈夫ですか?……!」




傘の向こう側を覗き込むとそこにはダンボールに入った猫が一匹。

そして、それを雨から守るようにして傘を差している彼女。

思わず苦笑した。



、こんなところで何してるんだ。…ほら、濡れてるぞ」



声をかけるとはくるりと後ろを振り返ってクラピカの姿を確認すると、

嬉々として目の前にあるダンボールを指差して言う。



「見てみて、捨て猫!…なんかねー…買い物から帰ってきたらこの子が捨ててあったの。

 雨も降ってたし可哀相だし……ずっとついてた。」




なるほど彼女の傍らには買い物袋がそのままの状態で置いてある。




「…ここはペット禁止だったか?」

「ううん、別に禁止じゃないけど……」


クラピカが問うと、はクラピカを少し見上げた。


「…なら早く入れてやればいいだろう。」



何気なく言ったその言葉に、の目があからさまに輝いた。だが表情の半分は驚きの色をみせている。

じっとクラピカの顔を見つめているに「何かついてるか?」と尋ねると、



「ううん、吃驚した…普段なら“どうせ最後まで飼えないのだから止めろ”とか言うのに」



クラピカの顔を真似しているのか、クラピカの台詞の部分だけ硬い表情で喋る

自分で言って自分でケラケラと笑っている。



つまり、クラピカが反対すると思って中にいれなかった、ということだろう。



「…そうだな……何となく気分だよ。」

「なにそれ、なんからしくなーい」



また、ケラケラと笑う。



「でもよかった。もしもクラピカが駄目って言ったら、あたしずっとここで粘ってようと思ったもの。」

「バカなこといってないで、早く部屋に入れ。も猫も大分濡れているだろう。」

「はいはーい。」



クラピカはさりげなく彼女の荷物と買い物袋を持ち上げる。

器用に片手で傘をさっさと畳むと、もう一度彼女を急かしてからマンションの中に入った。





「ねぇ、この猫の名前なににするー?」


追いかけるように後ろからかけられた声に、軽く振り返る。



「そういうのはあまり得意ではないからな…が決めて良い。」

「うーん、何にしよっかねぇお前の名前ー……。」



猫の鼻先をツン、と指で突きながら猫に話しかけるように言う。

子猫がニャー、と甘えたように小さななき声を上げるとは「可愛い!」と叫んでいた。

























「決めた。クラピカ!」


部屋に入るなりいきなりが言ったために、驚きつつまた振り返る。


「何だ?」

「違う違う、クラピカなの。」

「だから何だ、と……」


訳がわからなくてイライラしているとは猫をズイとクラピカの目の前に出して言った。









「この子の名前…クラピカにしようと思って!」









確かに。確かに好きに決めて良いとは言ったが……。

いくらなんでも自分の名前はないだろう。


そんなクラピカの心情を知る由もなく、は楽しそうに子猫と踊っている(踊っているのはのみだが。)



、クラピカ、というのはちょっとな…」

「え?何で?」


途端に悲しそうな顔をする彼女に一歩後ずさる。この顔に自分は弱いと、つくづく思う。





「第一…なんで私の名にしたいんだ?」

「え、そ、それは………」



珍しくどもる彼女を不思議に思って覗き込むと、何故か顔を赤く染めている。



「何か、言えないわけでもあるのか?」

「言えなく、は無いけども……」


普段見慣れないその仕草に面白さを見出してしまい、ついつい更に問い詰める。


「なら、はっきり言えばいいだろう…?」


そっと顔を寄せて耳元で囁いてやると、はくすぐったそうに首を竦めた。

やめてよー、と頭を軽く振ると彼女は恥ずかしそうにクラピカを見る。



「だってこれ言ったらクラピカが“バカなことを言うな”って言いそうなんだもん…」

「そんなこと言わないさ。」

「じゃあ、約束してね?」

「ああ。約束する。」


も意を決したようで、大きく息を吸い込んだ。



「クラピカ、最近仕事忙しいでしょー?あたしともなかなか会えないじゃない。

 …だから、クラピカがいないときでも“クラピカ”って名前を呼べるかなぁって……。」



そして顔を赤く染めたのは彼女ではなく、自分のほうだった。

嬉しい。嬉しすぎる。

だが、にそこまで寂しい思いをさせていたとは知らなかった。



「(彼氏失格……だな。)」



何の反応も返さないことに不安を感じたのか、が心配そうにクラピカを見ている。

クラピカはの手を取ると自分のほうに引き寄せ、抱きしめた。



「…ありがとう、。……嬉しいよ。」



あえて、ごめんとは、言わずに。




すると彼女も嬉しそうに、回した腕に込める力をほんの少しだけ強めた。







「だが…」

クラピカは抱きしめていた腕を解くと、彼女に言う。


「私がいるときにその名前で呼ばれては紛らわしいな……。

 猫を呼んでいるのか私を呼んでいるのか分からないだろう。」


「あ、そっか……じゃあ…クラピカのいるときだけ違う名前にしよっか…。」


彼女は軽く首を捻ると、


「よし!決めたー!…ネコピカ!」

「…ネ、ネコ…?」

「そうそう…クラピカのピカに、ネコをくっつけてネコピカー!」


単純で、名前としても少なからず可笑しい響き。だが、彼女が呼ぶと何だか可愛らしい。

嬉しそうにネコピカネコピカ言っている彼女を見て、クラピカはふと微笑した。





「あ、そろそろご飯にしなきゃ!手伝ってねークラピカ」


「分かった分かった。そう引っ張るな。」


「ネコピカはここにいてねー…ハイ、ミルク」


「育て方は知ってるのか?」


「昔家で猫飼ってたから大体はね。でもやっぱり本とか買ってこようかなぁ…。

 玩具も必要だしなぁ……あー色々必要なもの買わなくっちゃ。忙しい忙しい!」


「その割りには楽しそうに見えるがな。」


「えへへー!だって猫大好きだもん。」






といると、何もかもを忘れていられた。


だからこそ、何もかもを忘れさせてくれた。



























ご飯を食べ終わってから少しのんびりしていたと思ったら、隣から寝息が聞こえてきた。


「……


呼びかけても返答は無く、はただ相変わらずすやすやと眠っているだけだ。


「仕方の無いやつだな……。」


抱き上げてベッドにそっと降ろしてやると、足元にネコピカ…もとい自分と同じ名前の猫がまとわりついてきた。

捨て猫だが大分人に懐いているらしく、特に自分に対して警戒している様子もない。

によって綺麗になった毛並みを自分の舌を上手に使ってペロペロとなめている。


「お前は幸せものだな。」


あの、冷たい雨の中で

自分のことも忘れて傘を差し伸べてくれるような


「優しい主人に拾われて。」


頭を撫でてやるとネコピカはニャー、と甘えるような声をだした。







もっとここにいたい。が、ふと目をやった腕時計はもう直ここを出発しなければならないことを示している。



いつもいつも一人にさせてしまう。

“彼氏”という形ばかりの関係で彼女を縛ってしまっているような気さえ、する。


いっそのことさよならを言えたら彼女を楽にしてあげられるだろうか。

否、彼女のことだからきっと、そんなことを聞いただけでも怒るだろう。





彼女の額にかかっている前髪をそっと持ち上げると、そこにそっと口付けをする。




「すまないな……。」




耳元でそっと囁くと、寝ているにもかかわらず彼女をきつく抱きしめたくなる誘惑に負けそうになりながらも

思い切って立ち上がる。そうしなければならないのだ。















「また、仕事?」








そのまま部屋を出て行こうとした足を思わず止め、振り返るとが上半身を起こしてこちらを見ていた。



「ああ、すまないな。明日の朝からやらなければならない仕事だ。」

「また、帰ってくるんでしょ?」


ズキ、と心の中で何かが反応する。

仕事内容が、ふと頭の片隅をよぎった。




それでも、精一杯の笑みをに向けて。



「心配するな。少し留守にするだけだから。」

「うん……」


頭を撫でてやると、まるでネコピカのように甘えたような態度で頷いた。


「また待ってるね…。」


今にも泣きそうな目で言うから、見ていられずにその口に自らの唇を重ねた。

軽く触れ合わせる程度だったが、それでも十分だった。


は体をゆっくりとベッドに横にすると、

「行ってらっしゃい」

にっこり笑って、クラピカを見据えた。



「ああ。」




クラピカは彼女に毛布をかけなおした。





彼女の笑顔をもう一度見れたら、それ以上何も言うことはない。

自分が帰ってくれば。帰ってきさえできれば、彼女はきっとこれからもこうやって笑っていてくれるんだろう。










「 さ あ 、 お 休 み 。 」



目が覚めたら私はいなくなってしまうが、ちゃんと泣かずに待っているのだよ。






































































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あとがき

これでいいのかクラピカシリ甘!(シリアス甘の略。※尻が甘いのではありまs(ry

クラピカの優しさを目一杯…出したつもりで…すよ…?(疑問系か

もし彼氏とか彼女が、相手の名前を自分のペットにつけてたりしたら複雑な心境ですよね(そこは突っ込むなよ

でも今回は、理由が理由なだけにピカも嬉しくておっけーしちゃう。

クラピカは優しいなあ…。


*輝月